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府内城跡

内容

【所在地(住所)】
大分県大分市大手町3丁目の一部・荷揚町73、75
【内容】
 府内城は、慶長2年(1597)、福原直高により築城が始められました。福原の領地没収の後は、竹中重利が引き続き築城工事を進めました。特に竹中の頃には熊本半の加藤清正による石垣の築造の援助を受けるなどし、慶長7年(1602)には四層の天守閣を含む城の全容が完成しました。これに続き城下町の建設も開始され、東西1.1km、南北約1kmの豊後最大の規模を誇る府内城下町がまもなく出来上がりました。府内城と府内城か町は内堀(現存)、中堀、外堀の三つの大きな堀をもち、北は大分川河口と海に接してまさに水城ともいえる美しい城でした。その姿から白雉(はくち)城とも呼ばれています。また、府内城は荷揚城とも呼ばれていますが、荷揚げの城名は、このようなかつての「荷落ろし」(交易地)の場所に城地を定めたことに由来するといわれ、「落」の字を忌み、「揚」の字に改めたものといわれています。府内城と城下町を完成させた竹中に続き日根野吉明(ひねのよしあきら)の入封を経て、万治元年(1658)に松平(大給)忠昭が新藩主となり、その後、明治4年(1871)の廃藩置県まで、10代にわたる藩主によって府内藩政が勧められました。この間、寛保3年(1743)の大火によって、天守閣を始めとする城の施設の多くが焼失しましたが、その後、天守閣が再建されることはありませんでした。明治以降は大分県庁が置かれましたが、昭和20年(1945)7月大分空襲による戦災で南西角櫓など5櫓を焼失。現在の府内城は、焼失した5つの櫓を昭和41年(1966)に復原(鉄筋コンクリート製)するなどして整備士、城址公園として市民の憩いの場になっています。また大分市では平成6年より「府内城周辺整備事業」として府内城の整備に着手し、平成7年度には、二の丸と山里丸を結ぶ廊下橋の復原を行いました。権史跡は、土堀、天守台のほか宗門櫓、人質櫓で、市史跡は県指定部分を除く府内城地となっています。
【文化財の指定】県指定 史跡・市指定 史跡
【交通アクセス】大分駅から徒歩20分

媒体写真
管理施設/お問い合わせ先 文化財課
大分市荷揚町2番31号
TEL:097-534-6111  FAX:097-532-8102
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