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令和6年夏季展示「大分の戦争」を開催します

更新日2024年7月6日

 21世紀の現在、世界各地では、終わりの見えない戦争の中で多くの尊い命が失われ続けています。
 日本も93年前の1931(昭和6)年に中国東北部で始まった満州事変以降、中国との長い戦争に突入し、さらにアメリカやイギリスなどの国とも戦火を交えました。大分県下からも多くの兵士が出征し、また郷土も連日の空襲にさらされ、1945(昭和20)年にようやく戦争は終わりました。以後、平和が続いていますが、年月の経過とともに戦争を経験した世代が少なくなり、戦争体験の継承が難しくなっています。
 今回の展示では、市民の皆様から寄贈を受けた資料を中心に、家族と別れ出征した兵士や、様々な統制下にあった戦時中の暮らしについて紹介します。

展示構成

第1章 戦前の大分と強まる戦時色

1931(昭和6)年の満州事変以降、日本は戦争の時代に突入しました。新聞や雑誌など、日常で目に触れるものも徐々に戦争一色になっていきました。太平洋戦争末期には、日本の他の都市と同じように大分も米軍による空襲の標的となります。電車通り(現在の中央通り)を中心に発展していた大分市街地は、空襲により荒廃し大分駅からは海が見えたと言われています。

第2章 軍隊と兵士

第二次世界大戦中、延べ700万人以上の日本人が戦地へ出征しました。大分には、陸軍歩兵47連隊が駄原(現在の大分大学附属小中学校付近)に駐屯していました。徴兵を知らせる召集令状(赤紙)は、戦争末期には高齢者や学生にも届くようになりました。出征が決まると、兵士の家族は千人針や寄書した日の丸等を準備し、無事や武運長久を願いました。

硫黄島陣中日誌(大分市歴史資料館蔵)

 この陣中日誌は、大分第47 連隊を除隊後に、戦況が悪化すると大阪で再召集され、硫黄島の戦いで戦死した兵士の私物の日誌です。アメリカ軍上陸から数日後、硫黄島南地区陣地の壕で米軍によって回収されました。
 日誌は再召集の昭和19 年6 月20 日から、米軍が硫黄島に上陸する直前の昭和20 年2 月12 日まで記されています。日誌内容に悲壮感はなく日々の任務をこなしていく様子が記されていますが、頻繁に来襲する米軍機や米艦隊による攻撃、飲料水と食料の調達に苦労する様子が伺えます。
 日誌には銃弾が貫通したとみられる痕跡もあり、戦闘の激しさを物語っています。

第3章 銃後の守り

戦時下の日本では、前線に出ない人たちも食糧や金属類の供出、債券の購入などで戦争への協力を余儀なくされました。また本土決戦に備えて、女性や子どもたちは「銃後の守り」として竹槍を使った訓練等も行っていました。

戦時国債

大分空襲後の市街地 大分空襲後の市街地

戦災で消えた中心市街地

電車通りを行進する兵士たち

会期等

会期 :令和6年7月6日(土曜日)~令和6年9月23日(月曜日)
観覧料:大人210円(団体150円) 高校生100円(団体50円) 小中学生無料
    ※身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳の交付を受けている方とその介護者1名は無料
    ※団体は20名以上
休館日:7月8日(月曜日)、7月16日(火曜日)、7月22日(月曜日)、7月29日(月曜日)
    8月6日(火曜日)、8月13日(火曜日)、8月19日(月曜日)、8月26日(月曜日)、8月27日(火曜日)、8月28日(水曜日)
    9月3日(火曜日)、9月9日(月曜日)、9月17日(火曜日)

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